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甲賀 三郎(こうが さぶろう、1893年(明治26年)10月5日 - 1945年(昭和20年)2月14日)は、小説家・作家・推理作家、戯曲作家。本名は春田 能為(はるた よしため)。 == 来歴 == 1893年(明治26年)10月5日、滋賀県蒲生郡日野町に、小学校教師井﨑為輔と母しえの次男「井﨑能為」として生まれる。生家である井﨑家は、代々甲賀郡水口藩加藤家の藩士で、祖父井﨑湊は明治維新に活躍した。幼いころから学業に優れ、特に算術が得意で、尋常科4年時には先生よりも達者だった。 1904年(明治37年)、大阪の第一盈進高等小学校時代は『文芸倶楽部』等を愛読。5、6年生の時に投稿を思い立ち、短編二作を著す。 1907年(明治40年)、3月、高等科を卒業後、家庭の事情で給仕の職に就くが、その後上京し、叔母の婚家で実業家の春田直哉宅に寄寓。この叔父の世話で進学できることとなる。京華中学校第二学年に入学。黒岩涙香やコナン・ドイルを愛読する。この中学時代に『萬朝報』などに寄稿、何回か採用されたという。 1911年(明治44年)、第一高等学校に入学。菊池寛、久米正雄を愛読。 1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学に入学。化学科で応用化学を学ぶ。 1918年(大正7年)、1月に、請われて寄寓先の叔父直哉の養子となり、その長女道子と結婚、「春田能為」と姓を改める。7月に帝大を卒業。和歌山県和歌山市の「由良染料株式会社」に技師として就職。 1919年(大正8年)、染料会社を8月に辞め、東京神田三崎町に居を移す。 1920年(大正9年)1月、農商務省「臨時窒素研究所」の技手となり、窒素肥料の研究に従事。10月に技師に任ぜられる。 この研究所の同僚に、やはり後に推理作家となる大下宇陀児がいたほか、あるところで江戸川乱歩とも顔見知りだった。三人とも作家になる以前のことである。公務員生活は肌に合わず、中学時代から親しんだホームズ物に倣って探偵小説を書き始める。 1923年(大正12年)8月、研究所在職中に、『新青年』とともに一時期探偵小説を多数掲載していた雑誌『新趣味』の懸賞小説に応募した『真珠塔の秘密』が一等入選。探偵小説家としてデビューする。応募のときに、郷土の伝説上の勇者である「甲賀三郎兼家」になぞらえて、筆名を「甲賀三郎」とした。江戸川乱歩が『二銭銅貨』でデビューしたのが『新青年』4月号であり、乱歩に遅れることわずか4ヶ月のデビューだった。 この年末、窒素工業視察のため政府から「欧米に於ける窒化法による窒素固定法の現勢」を研究テーマに、「高等官六等」として欧米に出張を命ぜられる。 1924年(大正13年)、勤め先にたまたま『新青年』編集長森下雨村の知り合いがおり、第二作『琥珀のパイプ』を『新青年』に発表。 イギリスを経てドイツを訪問し、「フリッツ・ハーバー研究所」を根拠に窒素固定の研究に勤しむが、数週間すると研究よりも街から街を巡るのに多くの時間を費やすようになる。甲賀は設備も予算も不十分な日本の研究生活に疑問を感じ、しがない官吏の生活に嫌気がさすようになった。 この年11月に、フランス、イタリア、アメリカ等を巡遊しての出張旅行を終え帰国。その間、紀行『欧米飛びある記』を『新青年』に本名「春田能為」で連載。軽妙な筆致が好評を得る。 1926年(大正15年)、『母の秘密』、『琥珀のパイプ』の短編集二冊を刊行。江戸川乱歩の出現に始まる日本の探偵小説草分けの時代に、たちまち人気作家となる。『ニッケルの文鎮』、『悪戯』、『気早の惣太の経験』、『急行十三時間』など、この年、年間で20篇の短編を発表、自らの専門である科学知識を利用した、短編の本格派探偵小説を多数執筆した。メイン誌は『新青年』、ほかに『女性』、『苦楽』、『キング』、『文芸春秋』、『講談倶楽部』等々、幅広く作品を発表した。 窒素研究所在職中には、所長に反旗を翻し、労働組合のようなものを作り、事ある毎に所長に反対する旗振りの中心人物となっていた。 1927年(昭和2年)、島倉儀平、正力松太郎、布施辰治の関わる実話を材にした長編小説「支倉事件」を『読売新聞』に連載(1月15日~6月26日)、代表作となる。ほか『阿修羅地獄』を連載。また『魔の池事件』、『荒野』、『拾った和同開珎』、『菰田村事件』などを発表。 1928年(昭和3年)1月28日付で、窒素研究所技師を辞任。作家専業となり、新聞、週刊誌、婦人雑誌と発表の場をさらに拡げる。『神木の空洞』、『公園の殺人』を連載。また『日の射さない家』、『眼の動く人形』、『水晶の角玉』などを発表。 一方で「本格」探偵小説の普及を推進するための論陣を張り、「変格」探偵小説に厳しい態度をとった。 1929年(昭和4年)、『池水荘綺譚』、『幽霊犯人』、『地獄過』を連載。『奇声山』、『発声フィルム』などを発表。 1930年(昭和5年)、『蜘蛛』、『亡霊の指紋』、『幻の森』などを発表。 1931年(昭和6年)、大下宇陀児と、探偵小説について「本格」と「変格」の是非を問う大論争を繰り広げる。『荒野の秘密』、『妖魔の哄笑』、『山荘の殺人事件』を連載。『盲目の目撃者』、『焦げた聖書』などを発表。 1932年(昭和7年)、『乳のない女』、『血染めのパイプ』を連載。4月に書き下ろし長篇『姿なき怪盗』を刊行。8月、将棋初段となる(後年二段)。 1933年(昭和8年)、『犯罪発明者』、『暗黒紳士』を連載。『体温計殺人事件』、『情況証拠』などを発表。12月、「文芸家協会」理事に就任する。 1934年(昭和9年)、『誰が裁いたか』、『百万長者殺人事件』を連載。『血液型殺人事件』、『魔神の歌』、『黒木京子殺害事件』などを発表。 1935年(昭和10年)、『死頭蛾の恐怖』を連載。『月光魔曲』、『黄鳥の嘆き』、『ものいふ牌』などを発表。『ぷろふいる』に連載した『探偵小説講話』をめぐり、探偵文壇に論争を巻き起こす。 1936年(昭和11年)、『慮美人の涙』を連載。『四次元の断面』、『木内家殺人事件』を発表。書き下ろし長篇『死化粧する女』を刊行。『ぷろふいる』誌上において、木々高太郎と探偵小説の芸術性、「本格」と「変格」の是非を問う大論争を繰り広げる(探偵小説芸術論争)。 1937年(昭和12年)、森下雨村と不仲となり、探偵小説から離れ、脚本研究を目的とした長谷川伸傘下の「二十六日会」に入り、探偵戯曲の確立に熱心となる。『闇とダイヤモンド』、『恐怖の家』は新国劇で上演された。 時代物長篇『怪奇連判状』、『賢者の石』を連載、『蛇屋敷の殺人』、『月魔将軍』などを発表。 1938年(昭和13年)、8月より『甲賀・木下・木々傑作選集』刊行(甲賀の分は全8巻)。11月に長谷川伸、土師清二、中村武羅夫、衣笠貞之助らと華南、台湾を視察。『六月政変』、『午後二時三十分』などを発表。『中央演劇』や『舞台』誌に戯曲を発表。 1939年(昭和14年)、『要視察人』、『カシノの昂奮』などを発表。 1940年(昭和15年)、『海獅子丸の真珠』、『海の仁義』などを発表。3月21日に、旧制松本高校文科乙類在学中の長男・和郎が北アルプスで遭難死する。 この年を境に創作活動が激減。戦前の探偵作家ではトップクラスの創作量を誇った甲賀も、戦時体制が本格化し、執筆の機会をほとんど失ってしまう。戯曲『七十年の夢』や『黒鬼将軍』を脱稿するが未発表に終わる。 1942年(昭和17年)、2月に『親子錠』が梅沢昇一座により浅草公園劇場で上演される。6月、日本文学報国会事務局総務部長に就任。 1944年(昭和19年)、10月に日本文学報国会を辞任。「日本少国民文化協会」事務局長に就任。 1945年(昭和20年)2月、少国民文化協会の学童疎開の緊急会議で九州に出張。 その帰途で、超混雑の鈍行列車内で急性肺炎を発症。深夜岡山駅で降り、岡山市合同新聞社社長らの配慮で2月13日、友沢病院に入院。 2月14日、同病院で死去。51歳。応急注射液が用意できなかったためだが、当時は珍しいことではなかったという〔『演劇太平記(六)』(北条秀司、毎日新聞社)〕。 1947年(昭和22年)、6月より翌年9月にかけ、『甲賀三郎全集』全10巻が湊書房より刊行。 1949年(昭和24年)1月、遺稿『海のない港』が『宝石』に発表される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲賀三郎 (作家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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